日本において、服装の西洋化が広まることとなった直接の要因は1858年の日米修好通商条約に遡るといわれている。
この条約により各地の港が開かれ、役人や通訳などの直接外国人と交渉をする立場の人間を中心として服装の西洋化が広まっていくことになる。
(1543年の種子島へのポルトガル船漂着時より鎖国までのしばらくの間にも、一部の大名などに贈呈されるなどして少数ながらも流通はしており、江戸時代末期では長崎の出島など
では特別珍しいものではなかった)
1864年、禁門の変を理由に長州征伐の兵を挙げた幕府は、その時の軍服を西洋式にする事に決め、急遽小伝馬町の商人である守田治兵衛(上田とも)が2000人分の軍服の製
作を引受け、試行錯誤しながらも作り上げた。日本においての洋服の大量生産は記録に残る限りこれが初である。
また、断髪令により髪型も従来の髷から散切り頭になった。
その後しばらくは小規模ながらも各地に洋服の貸出し店や洋服販売店ができ、1871年(明治4年)、陸軍や官僚の制服を西洋風に改める事を定めた天皇の勅諭(太政官布告399号
「爾今禮服ニハ洋服ヲ採用ス」)が発せられ、以後警官、鉄道員、教員などが順次服装を西洋化する。
1923年(大正12年)、関東大震災で、身体の動作を妨げる構造である和服を着用していた女性の被害が多かった事から、翌13年に「東京婦人子供服組合」が発足、女性の服装
にも洋式化が進むことになる。
1927年(昭和2年)9月21日、当時の銀座三越において日本国内初のファッションショーが開催される。
これは一般よりデザインを募ったファッションショーでもあった。
また、日本橋にあった「白木屋」デパート(後の東急百貨店日本橋店の前身、日本橋店は1999年に閉店、現在の「コレド日本橋」の場所)にて発生した大規模火災で、やはり和装
の人々に被害が多かったことも相まって、従業員の服装を洋式に改める百貨店が増加し、更にそれに倣う形で、大衆の服装の洋式化も徐々に広まった。